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竜は想像上の動物で、中国を中心にアジアに広く知られている竜は古代中国で生まれました。角、鱗、髭と鋭い爪を持ち、古代中国のころから縁起の良い生き物とされてきました。
中国ではいつもは水中に棲み、必要なときは空を飛ぶことができると考えられており、飛鳥時代に日本に伝わると竜は「水の神」となります。そのため市内の水辺や寺社には竜にまつわる伝説が多く残っています。

※2024年に開催された企画展「絵と、干支~絵本から見る十二支の動物~」で展示した内容を元に作成しております。

室町の水呑竜

林松寺(室町)の薬師堂には左目に穴があいている竜の彫刻があります。
むかし、薬師堂が建てられると、毎夜田畑が荒らされるようになりました。人びとは「薬師堂の竜が水を飲むために出かけているのだ」と噂をするようになり、怖がった村人は夜になると家に引きこもるようになりました。
困った村人たちは、お堂の竜を彫った彫刻師に何とかするよう頼みます。これを聞いた彫刻師が早速お堂にやってきて大きな釘を竜の左目に打ち込むと、それ以降何も起こらなくなりました。竜の左目の傷はこのとき打ち込まれた釘の跡だといわれています。
中畑の八幡社拝殿の竜の彫刻にも同じ伝説が伝わっています。


林松寺 薬師堂

薬師堂の竜の彫刻

小島の竜神

小島町には竜宮淵という淵があり、そこにすむ毒蛇が人や家畜を襲っていました。そこで本證寺(安城市)の住職が竜宮淵に向かい、「毒蛇とはいえ、竜神なのだから人や家畜を殺すのはやめなさい」と毒蛇を説き伏せました。その後、この毒蛇を祀った竜宮の祠が建てられたと伝わっています。
小島竜宮社にはほかにもたくさんの竜の伝説が残っています。


小島竜宮社

竜宮の膳椀

小島の竜宮社と本證寺(安城市)の竜宮池は川でつながっており、本證寺でお椀が必要なときは、小島の竜神が川を伝ってお椀を貸してくれる。

竜宮の鯉

むかし、竜宮淵には大きな鯉が泳いでおり、釣人がいろいろな道具でつかまえようとしたが鯉はつかまらなかった。鯉が逃げるときに釣り人の頬を打つと、釣り人は頬がしびれてしまい痛くて1ヵ月ほど動けなかった。鯉は竜宮の使いだったのだ。

雨ごい伝説

竜宮淵には「竜神の枕石」という大きな石がある。日照りのときに村人が石をウマの草鞋でこすりながら雨が嫌いだと歌うと、水神である竜神は怒って、雨を降らせるのである。

小間竜神と鐘

実相寺(上町)には中国式の鐘の影響を受けた八葉宝鐸型梵鐘(県指定文化財)があります。この鐘には2つの伝説が残っており、1つは竜にまつわるお話です。

貞和2年(1346)、実相寺で住職の説法が7日間にわたって行われました。多くの人が訪れましたが、その間一日も休まず聞きに来たおじいさんがおり、説法が終わっても一人残っていたので怪しく思った住職が声をかけます。すると、おじいさんは「わたしは小間の淵に住む竜神です。住職の説法を聞いて悟りを得ることができました。お礼に大切している千手観音の掛軸と釣鐘1個を差し上げます」と言うと消えてしまいました。
その時に贈られたのが実相寺の梵鐘だといわれています。


実相寺 釈迦堂

八葉宝鐸型梵鐘

竜王茶壷

むかし、寄住・八ツ面・戸ケ崎あたりの低い土地がまだ沼地だったころ、その沼の主として竜王が住んでおり、夜な夜な農作物を荒らしては村人たちを困らせていました。
そこで永覚寺(寄住町)の住職は竜灯という神聖な火を贈って、竜王の心を鎮めようとします。竜王はその願いを受け入れて、農作物を荒らさなくなっただけでなく、住職に茶壷を1個贈りました。住職はこの茶壷に「竜王茶壷」と名付け、後に家康に献上されます。喜んだ家康は安阿弥がつくった木像の阿弥陀仏を寄進し、永覚寺の本尊になりました。


永覚寺

水吐き竜

康全寺(満全町)には大日堂という古くて由緒のあるお堂があり、天井には大きな竜の絵が描かれています。この竜の絵を誰が描いたのか、なんのために描かれたのかは伝わっていません。

今から約270年前、寛延2年(1749)に横町(現・幸町)にある井桁屋から出火した「井桁屋火事」とよばれる大火事が起こりました。火はたちまち横町全体に回り、ついに康全寺の門前に迫り、そばにある大日堂の軒先をなめるほどになります。そのとき、大日堂の天井画の巨竜がおそろしい勢いで水を噴き、火炎を防いだという言い伝えが残っています。


康全寺 山門


【令和6年能登半島地震義援金のお礼とご報告】
令和6年能登半島地震により被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
当館では、企画展「ギネス記録!船頭重吉の484日」において石川県の関係者様から多大なるご協力を賜りました。
このことから、企画展開催期間中、被災された方々へのご支援を目的とした募金活動を実施しました。
このたび、皆さま方からの心温まるご支援を頂戴したことに感謝申し上げるとともに今回の募金活動について下記のとおりご報告いたします。
■義援金の募集期間
令和6年1月27日(土)~4月7日(日)
■募金額
39,708円
皆様からお寄せいただいた義援金は、日本赤十字社愛知県支部を通して被災された方々へお届けします。
皆様の温かいお気持ちに心より感謝いたします。ご協力ありがとうございました。

Ⅰ章 「船長日記」が伝える重吉物語

「船長日記」は、尾州廻船督乗丸の船頭重吉が、484日間にわたって漂流し外国船に助けられ帰国するまでをまとめた漂流記です。作者の池田寛親は、重吉の体験が人生の教訓となることを願い書き記しました。
「板子一枚下は地獄」という極限状況を、重吉は船頭としての的確な知識・技術と、強い信仰、信念で乗り越えました。

Ⅱ章 帰国後、供養碑建立のために

「生きて帰るものあれば」と督乗丸の仲間と誓い合った供養碑の建立は、重吉にとって生涯貫き通す強い志となりました。重吉は外国から持ち帰った品物を陳列した見世物を行い資金を集めました。そうして建てた供養碑は、台座が船の形をした特徴的な石碑で、漂流中に命を落とした12人の名前が刻まれています。


重吉が建立した供養碑
(熱田区 成福寺)


Ⅲ章 数奇な人生を送った漂流者たちの物語

江戸時代は海運が発達した一方、海難事故も多い時代でした。外国船に助けられたりした者は帰国すると厳しい取り調べをうけ、海外の見聞を口にすることは決して許されませんでした。それが幕末になるとその知識・能力が重宝され、日本の近代化に活躍あるいは利用されるようになりました。遭難により数奇な人生を送った江戸時代の漂流者として、山本音吉、大黒屋光太夫、中浜万次郎、ジョセフ・ヒコを紹介しています。

Ⅳ章 重吉を伝えていくために

どれほど立派な功績を遺した偉人であっても、語り継がれていかなければ次第に忘れ去られてしまいます。「船長日記」を記した寛親のように、苦境を乗り越えた重吉のことを次世代に伝えようとする活動があります。西尾市を活動の中心とする「重吉の会」は子供たちに重吉を知ってもらおうと、紙芝居「船頭重吉物語」を学校などで上演しています。


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ギネス記録!船頭重吉の484日_解説シート



令和6年4月2日(火)より
一色町公民館・子育て多世代交流プラザにてPayPayが利用可能となります。
※教材費等一部対象外となる項目もございます。詳しくはお問い合わせください。


お電話でのお問い合せはこちら(9:00〜21:00)

123-456-7890563-72-3411