一色学びの館 吉良御鷹場 ― 家康も訪れた鷹狩の聖地 ―
鷹狩は、古代では天皇や貴族の遊びとして、中世では武士のたしなみとして古くから行われてきました。中世矢作古川の下流一帯は河原や沼、湿田など自然の原野が広がる鳥獣の繁殖地で、家康をはじめとした三英傑が鷹狩をするために何度も西尾へ訪れました。本展では鷹狩の歴史や作法、西尾で鷹狩が行われた背景について紹介します。
【関連イベント】
■講演会「徳川家康と鷹狩りの文化史」
日時/7月30日(日)午後2時00分~
会場/一色町公民館3階 コンベンションホール
定員/80人(申込先着順)
対象/どなたでも
参加費/200円
講師/二本松康宏氏
お申し込みフォームはこちらから
■ワークショップ「羽ペンをつくろう!」
本物の鷹の羽を使って、自分だけの羽ペンをつくります。
日時/8月19日(土)午後1時00分~
会場/一色町公民館 2階工作室
定員/10人(申込先着順)
対象/どなたでも ※小学4年生以下は保護者同伴
参加費/200円
持ち物/カッター
■展示解説
日時/8月6日(日)午後2時30分~
会場/一色学びの館 多目的室
対象/どなたでも(事前申込不要)
【お問い合わせ】一色学びの館 TEL0563-72-3880
- 時 間
- AM9:00〜7:00
- 場 所
- 一色学びの館 多目的室
- 休館日
- 月曜日【7月17日(祝)は開館】
第1章 鷹狩の歴史
鷹狩は訓練したタカを山野に放って鳥や獣を捕まえる狩りのことで、 5,000 年以上前のアジアの遊牧民によって生み出されたと考えられています。鷹狩は世界各国に広まり、現在ではアラブ首長国連邦をはじめとした 11 か国の鷹狩がユネスコの無形文化遺産に指定されています。
日本の鷹狩は3世紀ごろ、仁徳天皇の時代から行われるようになったといわれ、権力を示す儀式として天皇や公家に親しまれました。
中世になると鷹狩は武士の基礎的な素養として、しだいに武士の間でも広く行われるようになります 。室町時代には武士の鷹狩は一層活発になり、タカや鷹狩の獲物は贈答品にもなりました。
江戸幕府の初代将軍・徳川家康は鷹狩を好んでいたことで有名で、江戸時代になっても行われました。鷹狩は儀式化されて江戸幕府の年中行事となり、特に将軍自らが行う「鶴御成」は最も権威のある鷹狩でした。生類憐みの令を出したことで有名な五代将軍・徳川綱吉が鷹狩を縮小しましたが、八代将軍に徳川吉宗が就くと、鷹狩は再興することになります。
第2章 西尾の鷹狩
中世の西尾市内には、広田川や弓取川などの川が流れており、福地地区の地名からも水が豊かな土地であったことが伺えます。 水場の周りには鷹狩の獲物となる鳥獣が多く棲んでいたと考えら れ、西尾は鷹場に最適でした。そのため、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も鷹狩のために西尾を訪れており、市内には信長が鷹狩の際に使用したという伝承が残っている西尾城本丸をはじめ、鷹狩りゆかりの地が多く残っています。
江戸時代に入ってからも鷹場として管理されていました。しかし慶長10 年の矢作川の改修で現在の本流になり、正保3年に弓取川が閉じられると、湿地は農地に代わり、しだいに鷹狩は行われなくなっていきます。
第3章 現在の鷹狩の技術
鷹狩に使うタカを持ち主(鷹主)のかわりに調教し、毎日の世話をする人を鷹匠とよび、中世になるとさまざまな流派が生まれました。
「諏訪流」は中世から近世において全国でもっとも普及した流派の一つで、 諏訪大社 (長野県 )で行われた「贄鷹」という神事がはじまりだといわれています。諏訪流の祖である小林家次は、戦国時代から江戸時代初めごろに活躍した鷹匠で、織田信長に仕えました。鷹狩の功績から鷹の字をもらい、家鷹と名乗るようになり、信長が没したあとは豊臣秀吉・秀頼 に仕えました。次男・ 元長が徳川家康に召し抱えられると、子孫は幕末まで徳川将軍家に仕えることとなります。明治時代になると、諏訪流は宮内省に仕えることとなり、皇室の儀式として鴨場で鷹狩を行いました。
戦後、 宮内庁で鷹狩が行われなくなると、第17代宗家の田籠善次郎氏らが諏訪流放鷹術保存会を発足します。現在では門下生への講習、イベントでの講演や実演、里山や資料の保存など、伝統的な鷹狩の技術を伝承するための活動を行っています。